巻地区ののぞきからくり

以前、「のぞき小屋」という風俗店の広告を見たような記憶がある。「人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者」は軽犯罪法によって罰せられることになっているのだが、隠されているものを覗きたがる人間の欲求はどうにもなくならないようだ。この欲求を商売に転じたのが「のぞき小屋」だが、これは近代に始まったことではない。江戸時代以来の「のぞきからくり」がそれであった。ただし近代の風俗店がのぞかせたのは物(女性の裸体など)だったが、のぞきからくりが覗かせたのは物(絵)そのものよりも「からくり」であった(もちろん歴史の途上では女性の裸体をのぞかせたものも無かったわけではない)。つまり、のぞく物そのものが興味の対象だったのではなく、のぞいた箱の中にある視覚を驚かせる工夫が興味の対象だった。のぞきからくりの一番のお得意さんが子どもたちだったのはそのためである。子どもたちは、箱の中の仕掛けにすなおに驚き、そして喜んだのだった。 幻灯機や映画の普及によって消滅してしまった大衆芸能です。今では、新潟市の巻地区に残る屋台が公演できる残された最後のものとなりました。 広島県の三原市歴史民俗資料館にも一台「俊徳丸」の屋台が所蔵されています。寄贈者は熊本米夫氏。同氏による「俊徳丸」演唱音源も残されています。またこれには絵の数ヶ所に製作者「兵庫縣姫路市 宮澤由雄細工」の文字があります。

広島県三原市歴史民俗資料館所蔵の屋台

巻郷土資料館所蔵の屋台

学生と製作した1/6の模型

巻郷土資料館所蔵の屋台が残された経緯

現在巻郷土資料館に保管されている〈のぞきからくり〉屋台の所有者であった旧巻町11区の故古寺信さん(大正十五年生)宅を訪問してうかがった話をもとに、昭和初期以前に〈のぞきからくり〉を興行した人々の様子を述べてみたい。訪問日は2003年5月17日。

屋台発見のいきさつ

昭和51年頃、〈のぞきからくり〉があるらしいという話を聞いた郷土史研究会のメンバーが古寺家を訪ねた。もし所有していたら見せてほしいと頼まれ、蔵を探してみた古寺さんは、物置のすみに大切に包まれてあった屋台の各部を発見して、その豪華さに驚いたという。保存されていたのは『幽霊の継子いじめ』と『八百屋お七』の2点だった。そのうち『幽霊の継子いじめ』の屋台が完全な形で色鮮やかに残っていたのである。残念ながら『八百屋お七』の方はネタ絵だけで、屋台全体は残っていなかった。しかし、そのネタ絵は細密に描かれていて製作者の技量のほどが感じられるものであった。これについては古寺さんが以前から有ることを知っていて、余談ながら奥さんが二番目のお子さんを出産したとき、冬の寒い頃だったのでネタ絵を二枚合わせて屏風代わりに使ったことがあるとのことだった。

屋台の所有者

もとの所有者は、古寺信さんの伯母にあたる古寺ヨキさんだった。ヨキさんは明治九年生れで、昭和二十年に六十九歳で亡くなっているという。巻町で〈のぞきからくり〉が興行された時代をほぼ知ることができるだろう。 古寺家は昔の小作農家で、伯母夫婦は古物商をしたり、あるいは巻神社の大祭で氷水売りなどもして稼いだものだという。〈のぞきからくり〉も一種の副業で、伯母は夫の九蔵さんと一緒に興行して歩いていた。 屋台の購入は、町内の内山ミヨさんの紹介によるものであった。内山ミヨさんは、「あねご」と呼ばれ、巻の香具師仲間の親分的存在であったという。明治の終わりから大正頃のことと思われるが、内山ミヨさんの話では、ネタ絵(一枚?)の値段は当時の金で十何円ほどしたものだ、とのことである。 古寺家所有の屋台は、結局伯母夫婦一代限りの興行に使われただけのものであったことが確認できた。

復元のいきさつ

古寺さん宅から発見されたとき、屋台はかなり痛んでいて一部分が欠け落ちるようなところもあったというが、復元にたずさわった斎藤文夫さんによれば、これを上演可能なものにしたいという人々の熱意によって、押し絵の部分などに修理をほどこし、なんとか動かせるまでにしたという話である。今でも、押し絵の布が切れて中の綿が少し出ている部分があり、飾り金具も錆び、目止めのガラス・レンズはかなり失われた状態になっている。 〈のぞきからくり〉は、屋台があるだけでは上演できない。実際に動かすには、口上を付け、物語に節を付けて歌う語り手がいなければならない。幸い、「往年の名手で蒲原一円を庭場として高町を掛け」た内山ミヨさんや、「親と一緒に荷車を挽き苦労を積んだ山賀チセ」(一九八八年発行、巻町郷土資料館資料目録NO.10『のぞきからくり―その構造と機能―』)さんが健在であったために復活上演することができたのである。今日では、土田年代さんがその伝承に取り組んでいる。

盛んに興行された頃

昭和十二年刊行の小林存著『越後方言考』に、覗きカラクリを越後の方言で「かなくり」といい、「村の祭礼によくやつて来て口上唄をつけて八百屋お七などの場面を見せたことを思ひ出す」とある。 古寺家は、『幽霊の継子いじめ』や『金色夜叉』などの刊行された台本も数部所有していた。「定価金五銭」とあり、姫路で発行されたものである。これは筆者の推測の域を出ないが、興行のとき同時に群衆に販売されたものではないかと思われる。 数十年ぶりで、古寺さん宅の倉から出された〈のぞきからくり〉の屋台を見て、近所の人が、長く忘れていた節を思わず口ずさんだという。巻町の人々にとって、それがいかに親しい芸能であったかが知れるだろう。 興行はまず地元の巻神社大祭で行われたことは勿論であり、そこでは二台三台と並んで興行が行われたほどだったが、古寺さんの伯母夫婦は坂井輪村や角田浜など巻近在の祭りの日にも出かけていったという。一式全体が荷車に積んで行けるように組立式になっている。神社の境内に着くと、組み立てた屋台の両袖に夫婦が立ち、掛け合いで演じたらしい。 巻町郷土資料館資料目録NO.10によれば、内山ミヨさんはかつて「数台の舞台を所有していた」ともいう。舞台は屋台のことと思われるが、作品毎にネタ絵だけを替えればよいというものではなく、演目一つに対して屋台が一台必要であるから、数台の屋台を所有していてはじめて複数の演目を上演できることになる。しかし、それは大変な負担になるから、他の所有者はそれぞれ別の演目の屋台を持ち、お互いに貸し借りしたものだと古寺さんは言う。実際に聞いた経験から、内山さんと山賀さんでは節回しが違っていたと古寺さんは言うから、屋台を借りた同一演目でもまた違う味が出せたものと思われる。料金をいくら取ったかは分からない。

(2004.01記す)

*〈のぞきからくり〉について詳しくは、拙著『江戸期視覚文化の創造と歴史的展開―覗き眼鏡とのぞきからくり―』(三弥井書店、2012)を参照してください。

演目の成立年の検討

次のPDFファイルを参照してください。「幽霊の継子いじめ」の製作年代について.pff (「幽霊の継子いじめ」はいつ頃作られたか?)

ノゾキの資料

▼西和夫『近世の数寄空間―洛中の屋敷、洛外の茶屋―』(1988、中央公論美術出版)を読んでいて、『桂宮日記』享保九年三月八日の記事に「のぞき箱」があることを知った。霊元法皇が桂宮家に行幸したときの登与宮からの献上品として「ノゾキ黒塗(作物筥)」とあるとのこと。拙著『江戸期視覚文化の創造と歴史的展開』(三弥井書店、2012)に述べたように、享保年間(1716-35)は「のぞきからくり」が流行した時代だった。貴族の間でこのような献上品が現われるのも、その世相を反映したものである。漆でも塗った箱型の「ノゾキ」で、いわば大人の玩具といった品であるが、当時香具師などが興行した見世物の箱のミニチュアであったか、それとも西洋の眼鏡絵を見るゾグラスコープであったかは不明である。

▼二宮尊徳(二宮金次郎)の逸話‥‥相馬御風が「未知の世界にあこがれる少年の生一本な心は貴んでやらねばならぬ」とした逸話の例に、二宮尊徳の子どもの話がある(『相馬御風著作集』第二巻「海が見たさに」)‥‥二宮尊徳が左官を雇って家の中の仕切りの壁を塗ってもらった。土壁を塗るには、まず萱や小竹で十字に組んだコマイという下地を作って、それに一面に泥を塗って仕上げるのだが、尊徳の幼い子どもが、ふと網目状になったコマイの隙間から隣りの部屋を覗いた。「一度それをやって見ると、そのことがどんなに彼の気に入ったものか、左官がコマヒをかく後から/\そこへ行っては覗いて見て喜んでゐた。」 コマイができあがると左官は一面に泥を塗って壁にする。翌日、子どもが起きてそのところへ行ってみると、もう覗くべき隙間がない。失望した子どもは泣いて泣いて泣き止まなかった。困った左官が、坊やが覗いていた部屋はここですよ、と子どもを連れて隣りの部屋を見せた。ところが子どもは納得しない。「こゝぢやないよう。あちこから覗いて見るところだよう。覗くとこへ連れてつて。ね、覗くとこへ連れてつてよう。」と言って、ますます強く泣きせがんだという。この後は、父親の二宮尊徳が、できあがった壁をあえて壊して再び子どもの願望をかなえてやったという彼の人徳を語る話になるのだが、この話は「のぞきからくり」を覗く子どもたちの純真な好奇心をとても良く語る例だと思う。ちなみに言う、二宮尊徳は逸話の多い人物で『解説二宮尊徳翁全集』逸話雑録篇(昭和十七年)には一五三の逸話が載っている。しかし、その中には一子弥太郎(五~六歳)のわがままを聞き入れて、もはやできあがらんばかりになった新築の家の廊下の突き当たりの壁を大工に破らせた話はあるが、コマイの話はない。相馬御風が紹介する逸話の出典はまだ確かめていない。  2017.04.23